東日本大震災から8年になりました。
早いもので東日本大震災からもう8年になります。被災地は復興が進んでいるとはいえ、今も5万人以上の人々が故郷を離れて暮らしています。そして2533人の方がまだ行く不明のままです。
地震の起きた午後2時46分、私も祈りを捧げました。そして辛い気持になりました。
思い起せば8年前のあの日、東京でも震度5強で未だかつてない恐怖を感じました。そして帰宅困難者になり
ながらも職場からバスと徒歩でかなりの時間をかけながら、やっとの思いで自宅にたどり着きました。
JRの駅や駅ビルのシャッターは全て降ろされて帰る手段を失った人々は連絡通路に座り込んでいました。避難場所が屋外だった為、私は避難所には行かず家に戻ることにしたのです。寒い寒い日で震えながら歩いていたあの日の事がつい昨日の事のように鮮明に思い出されます。途中、立ち寄ったコンビニやスーパーには食べ物
も何もありませんでした。
東京や千葉、埼玉も一応被災地です。九段会館の天井が崩落し2名が亡くなられました。浜離宮では陥没が起こり、大学の図書館が壊れたり羽田空港待合室の天井から物が落下してきたそうです。
葛西や浦安などでは液状化により民家も被害を受けました。ディズーニーランドの最寄り駅である舞浜駅もかなりのダメージを受けました。千葉の北部は津波に襲われ何人もの方々が亡くなりました。また茨城でも深刻な被害がありました。埼玉のショッピングモール内の映画館の天井も落ちました。
計画停電が実施され、時間が来るとバシッと電気が消え信号も付かず、ATMも使えず、お店は臨時休業、
電車も本数がかなり削減され、走っている電車の中は灯りもなく真っ暗、駅のエスカレータも休止、東京の街も
暗く沈んでいました。外国人の方々の多くは帰国してしまい、数日後に訪れた新宿や渋谷の街に人が殆ど歩いていない事に驚愕しました。あんなに人の居ない新宿や渋谷を初めて見ました。
何日経ってもスーパーの棚はガラガラ、飲料水のボトルや清涼飲料水も電池も売り切れ、自宅近くのスーパーでは一人お握り2個、パンも2個までしか買えませんでした。
東京や首都圏でもこんな状況でしたから、被害甚大な関東・東北で被災された方々の想像を絶する辛さを考えると今でも涙がこぼれてきます。TVニュースで津波の被害や原発事故を繰り返し見る度に私の心は段々壊れて行き、急性の鬱病状態になりました。被災者の方々、亡くなられた多くの方々に対し何も出来ない、ボランティアにも行けない自分自身に腹も立ちました。自分の無力にこれほど打ちのめされた事はかつてありませんでした。
しかし何かを発信しなけrばとブログ(パート1のほう)で毎日、毎日、震災の記事ばかり書いていました。
福島の原発事故の刻刻と変わって行く様子をTVの生中継をかたずを飲んで見守っていました。
あの日から8年経ち、被災地には新しい建物や家やお店などが出来ましたが、人々の”心の復興”は進んで
いません。復興したはずの街は人々にとって以前とは全く異なった場所になってしまい、人々の帰郷を阻んで
います。福島では未だに立ち入り区域がありますし、立ち入りと住む事が許可された地域でも病院や商業施設
などが整わず、人々は帰るえる事を躊躇しているようでっす。
そして親しい人や肉親を亡くした人々はいくら考えてもその死を受け入れる事が未だに出来ず苦しんでいるのです。そしてあの時、救助や遺体発見に尽力した自衛隊や警察などの人々の心にも深い傷を残しています。
原発事故も収束するはずもなく、メルトダウン状態の原発は未だに放射能汚染水を垂れ流しています。
あの原発事故の後、ある方が書いた詩が今でも心に残っています。
「満天の星空の下、目に見えない放射能が静かに降り注いでくる・・・」
もう8年、しかし目に見える物の復興は進んでも誠の”心の復興”はまだまだ遠いと強く感じた次第です。
北関東や東北に本当の意味での春が来るのは長い時間がかかる・・・そう思います。
私達は東日本大震災を風化させてはいけません。いつまでも心に留め、今後も語り継ぎ、そして応援して行かなければならないと思います。今でもこの言葉は生きています。「頑張ろう東北!、頑張ろう日本!」