べルーサール汐留ビルの横側に昔使用されていた電車の信号機が保存されています。
汐留のビルの谷間の道路に古い踏切信号機が保存されています。銀座郵便局とベルサール汐留ビルの間の道にこの信号機が残されています。
現在の「シオサイト」にはかつて旧新橋駅、後の貨物駅「汐留駅」がありました。関東大震災後に築地に東京中央卸売市場築地市場ができると国鉄汐留駅から築地市場との間に貨物引き込み線が造られ、この信号機が
設置されました。汐留側は浜離宮踏切(中央区銀座8-21-1)、築地市場側は「青果門踏切」と呼ばれていた
ようです。正確には昭和6年から昭和62年までの56年間、国鉄汐留駅と築地市場駅を結ぶ貨物引き込み線の
線路の信号機として使用されたのです。昭和60年(1985年)に線路は撤廃されました。
この貨物引き込み線では、多い時は1日150輌の貨車が通過していたそうです。
国鉄汐留駅が廃駅になった時、この信号機も撤去される予定でしたが、地元の方々の尽力によりこの地に保存
される事になりました。
築地市場には線路で貨物が搬入されていたという話は以前から聞いていましたが、この信号機を眺めていると
当時の風景が浮かんでくるようです。歴史の証人のような踏切信号機です。
私の亡き母と母の姉は何故か月島から佃の渡し船に乗って築地経由で汐留の小学校に通っていたそうなので、多分この踏切を知っていたのではないかと思います。
☆信号機のそばには「保存理由」の石碑があります。その内容は以下の通りです。
元、この高速道路の下には”汐留川”が流れ、鉄橋も架かっていました。「汐留駅」はわが国の鉄道開業当時に
おける始発駅の「新橋駅」でしたが、大正3年(1914年)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。
関東大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬の為の線路が敷かれ
大きな働きをしたのです。都民の暮らしの台所を支えてきたこの信号機を、国鉄廃止に当り捨て去られるのに
忍びず東京都中央卸売市場、東京都第一建築事務所、並びに中央区教育委員会、地元各位の多大なる
ご協力により、ここに永久保存されることになりました。
~昭和62年(1987年)12月、銀座御門通り会、銀座金春通り会