日本における歌声運動の先駆者である関鑑子(せき あきこ)さんの一人娘である小野光子(おの てるこ)さんが
昨年9月に亡くなられていたことを最近知りました。
NHKラジオ「深夜便」のコーナーに作家の五木寛之さんの”日本の歌謡曲とその時代背景」というのがあって、
先日聴いていたところ、その日は日本の歌声喫茶運動というもでありました。
五木さんはその番組の中で、歌声運動の先駆者である関鑑子(せき あきこ)さんの話と当時の裏声喫茶の話を
なさっていました。その時、思い出したのが関さんの一人娘である小野光子(おの てるこ)さんのことでした。
関鑑子さんは左翼でプロレタリア芸術家の同志である小野富吉さんとご結婚され光子さんが生まれました。
関さんは1954年(総和29年)ごろから新宿の「灯(現在は”ともしび”」などで歌声運動を積極的に行っていました。歌声喫茶と歌声運動は瞬く間に大学生など若者に熱狂的に支持されたのです。
歌声喫茶はピアノやアコーディオンなどの生演奏に合わせて若者達が合掌する喫茶店でした。
私は中学生の頃、当時、新宿ミラノ座の上階にあったスケートリンクで滑った後、先生に連れられて一度だけ「灯」に入ったことがありました。寒い冬の頃で温かなホットココアが美味しかったことくらいしか覚えていません。
その当時、新宿には「カチューシャ」などの歌声喫茶もあったと思いますが入ったことはありません。
歌声喫茶では日本の歌曲やロシア民謡が主に歌われていました。
五木寛之さんによると当時は大学構内でも誰かがアコーディオンを弾き、学生達が集まって歌っていたそうです。。その関さんの娘さんと私は海外旅行斜勤務時代にお客様として知り合いになりました。
関さんの娘さんの小野光子さんは芸大を卒業してからモスクワ音楽学校に留学されていました。ソプラノ歌手と
して芸大で教えていらっしゃいました。初めてお会いしたのは私が勤めていた会社で、若い教え子さん達に囲まれて、とても華やかな印象でした。社長のご友人の小野さんはチャイコフスキー国際コンクールの審査員を
なさるため、当時のソ連に渡航を予定され、その手続きを私がまかされました。
当時はそんなに高名な方とは全く知りませんでした。ソ連のビザを取得するためご一緒に麻布のソ連大使館(現・ロシア大使館)に行きましたが、大使館の方と流暢なロシア語で会話されていたことにびっくりしました。
帰りがけ、六本木の今は無き蕎麦処でお蕎麦をご馳走になったことが今でも忘れられません。
代理で戸籍謄本を取りに行ったり、ご自宅にも何回かお邪魔しました。
ロシアに出発の前、東京→モスクワ→パリ→モスクワ→東京のアエロフロートの航空券のチケットを手配したのは私ですが、酷空気の便名を間違えたか、出発時刻を間違えたかパリからモスクワに戻れないとファックスが
入り会社は大慌てになりました。完全なる私もミスでした。社長が何とかうまくやってくれましたが、小野さんには多大なる迷惑をかけた事を今でも申し訳なく思っています。社長の大切な友人である方にとんでもない失礼な事をしてしまい慚愧の思いでいたたまれませんでした。
一度お会いしてお詫びしたいと思いながらもその後お会いする事はありませんでした。いつもその事が頭の片隅に残っていました。チャイコフスキーコンクールの審査員を無事勤められたのかも心配でした。
小野光子さんは声楽家でありながら、お母様の”歌声運動”も引き継いで歌声運動に大きく貢献されたそうです。
もうお名前も忘れていましたが、ラジオの五木寛之さんの関鑑子さんについてのお話から、関さんの娘さんだったのだと改めて知った次第です。あの当時、社長から「小野さんのお母さんは歌声運動の創始者なんだよ」と
聞かされていたのを思い出したからです。小野さんは私の大好きなピアニスト”リヒテル”と親交があったそうなので、あの頃リヒテルについて聞いておけば良かったと今になって思いました。
その小野光子さんは昨年9月28日、90歳でお亡くなりになりました。もう一度お会いしたかった、あの時のお詫びをしたかったと思いながらも時すでに遅しでした。
2000年くらいから歌声喫茶は再び脚光を浴び、新宿の灯(現・ともしび)も健在だそうです。五木寛之さんに
よると昔とはかなり雰囲気が変わってしまったそうですが、一度行ってみたいと思っています。
そして小野光子さんのご冥福を心よりお祈り致します。きっと天国から歌声喫茶の応援をされていらっしゃることと思います。人々の歌声が天国まで届いているような気がします。