浅草橋の交差点から隅田川に向かって歩いて行くと左手に、神田川に架かる「柳橋」があります。
柳橋
神田川が隅田川に流れ込む地点
船宿「小松屋」
柳橋の歴史
柳橋のレリーフ
関東大震災から復興した記念の「復興記念日)
この柳橋を訪れたのは、奇しくも9月1日、90年前に関東大震災が起った日でした。
最初の柳橋は元禄11年(1698年)に竣工。その当時は川沿いに船宿が多く、船遊びをする人達で
とても賑わっていたそうです。赤坂芸者、新橋芸者、神楽坂芸者などと並ぶ柳橋芸者のいる花街としても
栄えました。しかし大正12年(1923年)の関東大震災で橋は焼け落ちてしまいました。
私の祖母一家は当時、永代橋のほとりに住んでいましたが、家は倒壊し、火の手も迫ってきました。その時、
隣の家の船大工の人の大きな船に乗せてもらい、千葉の海岸まで逃げ助かりました。
その後、永代橋も落ち、船で逃げようとした人達も大勢いましたが、小さな船は、たちまち火に包まれ沈没して
いったそうです。かなり多くの命が奪われ、川面にはおびただしい数の遺体が浮んでいたそうです。
最近、WEBの関東大震災の記事で、崩れていく永代橋から沢山の人々が川に落ちていく悲惨な絵を見ました。
この柳橋も焼けて落ちたことを思うとこの辺りもかなり多くの方が亡くなられたと思います。
昭和4年(1929年)に、ドイツライン河の橋を参考にした「永代橋」のデザインを取り入れ新・柳橋が完成
します。それから84年、貴重な近代の土木遺産として貴重な橋となりました。
川の横には現在でも舟宿が数軒あります。写真の小松屋さんは、江戸名物の”佃煮(つくだに)も
販売しています。江戸情緒が今でも残っている柳橋周辺です。
この柳橋から両国方面に行くと、関東大震災の際、陸軍被服省跡地(現・横網(よこあみ)公園)があります。
地震後、避難してきた人々に炎が襲い掛かります。燃え盛る火は竜巻のようになり人々を飲み込みました。
被服省跡地での死者は約4万人と言われています。まるで地獄絵をみているようだったと、生き残った方が
話していました。それほど悲惨な、悪夢としか言いようのない状況でした。
浅草名物の12階も倒壊し、下町全域は家屋倒壊と火事で丸焼けになりました。
あの日から90年、9月1日を私達は決して忘れてはならず、大きな教訓としなければと思います。
復興記念の碑に向かい心の中で手を合わせ、犠牲になられた多くの方々のご冥福を祈りました。