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Channel: ☆夢織人の街TOKYO散歩&思い出の場所Ⅱ
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☆野坂昭如さんノー・リターン、野坂さん逝去されました・・・・。

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作家の野坂昭如さんが逝去されました。大好きな方でしたので大変ショックです・・・。

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12月9日の夜、作家の野坂昭如さんが亡くなられました。享年85歳でした。

思えば波乱万丈の人生でした。1930年に鎌倉で生誕するも、その前にご両親が離婚、父は去り、母も
野坂さんを生んだ2か月後に亡くなられ、神戸の一家に引き取られ養子になります。
戦争中は苦労し、義理の妹を栄養失調で亡くしたことが、「火垂るの墓」を書く動機となります。
戦後、親戚の家から万引きしたことで少年院に送られ、実の父が引き取りに来てくれて、それ以来野坂を
名乗ることになります。新潟の大学に入るも後に早稲田大学に入りなおします。
その時期は色々なアルバイトをし、三木トリローさんの工房に入り、いずみたくさんと童謡やCMを作り始めます。
1965年の「おもちゃのチャチャチャ」(歌詞・野坂昭如/作曲・いずみたく」は日本レコード大賞童謡賞を受賞
しました。CMでは「ハトヤ」や「ハウスバーモントカレー」などがあります。

作家としては自称「焼け跡闇市派」と称し、戦後の日本を焼け跡・闇市を通してみつめ、社会の底辺にうごめく
民衆を描きました。
「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞を受賞しました。「火垂るの墓」は私も何度も読み、アニメも何度も
見、涙しました。飢えで妹を死なさせなkればならなっかた妹への鎮魂の書でもあります。
「真夜中もマリア」なども私は好きでした。

元々、シャンソン歌手を目指していた野坂さんは「黒の舟歌」「マリリン・モンローノーリターン」で歌手デビュー。
サングラスに皮ジャン姿の野坂さんは不良ぽくてかっこよかったですね。

後に二院クラブから参院選に立候補し、短い期間ですが参議院議員もやっていました。議員になった理由は
「2度と飢えて死んでいく子供を出さないため」だったそうです。

私の野坂さんの一番の思い出は1974年に行われた「中年御三家」武道館コンサートです。
永六輔さん、小沢招一さんとの「中年御三家」は最高でした。黒の舟歌たマリリン・モンローノーリターンを
生で聴けて感激しました。その中年御三家も小沢招一さんが亡くなり、野坂さんが亡くなり、今はもう
永六輔さんだけになってしまったのがとても寂しいです。

TVタックルに出て歯に衣を着せぬ発言をしたり、大島渚監督をパーティ会場で殴ったり、色々話題の尽きぬ
人でした。

ハチャメチャな人生のようにも思いますが、「焼け跡闇市派」の野坂さんの生涯は一人の戦争体験者として、
戦争の愚かさ、醜さを語ることができる最後の作家だったと思います。
神戸では「火垂るの墓を歩く会」というのがあって、火垂るの墓に出てくる戦跡を今でも皆さん歩いている
そうです。それに対しての野坂さんの言葉は「歩き続けて下さい。戦争を忘れないで下さい。舞台は何も
変わっていない。」これが野坂さんの私達への遺言だと思います。

焼け跡闇市派の年とってもなお不良ぽかったこんな方はもう出てこないと思います。
戦後70年、私の中で一つの時代が確実に終わったという思いがよぎります。

昨日、NHKの番組で野坂さんを追悼して「黒の舟歌」が流されました。その歌を聴きながら涙が止まりません
でした。野坂さん、お疲れさまでした。そして有難うございました。
どうぞ天国で安らかにお過ごしください。 合掌。



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