以前も何回かご紹介した「ホテルオークラ東京」です。城山ガーデンの真向かいにあります。
「ホテルオークラ東京」本館(1962年竣工及び開業)
和の要素を取り入れた建築様式です。
エントランス
本館ロビー
別館(1978年開業)
横から見た別館建物
別館 SOUTH WINGの表示
別館入り口
ホテルオークラ東京は1962年(昭和37年)の開業で、昨年50周年を迎えました。
一代で財閥を築いた大倉喜八朗(澁澤栄一らと帝国ホテルを造った)の長男の大倉喜七朗が
大倉家本邸のあった場所に造ったホテルです。戦後、財閥は解体され、公職も追放、父から受け継いだ事業は
ことごとく手放すことになります。そんな失意の中で決意したのが、ホテルを造ること、それも国際的に通用する
本格的なシティホテルです。それまで外国人が泊まれるホテルは帝国ホテルと横浜ニューグランドぐらいでした。折しも1964年の東京オリンピックに向け、外国人観光客用のホテルを造ることは急務でした。
1960年(昭和35年)には、ホテルニュージャパン、銀座東急ホテル、1961年(昭和36年)にはパレスホテル
(旧・ホテル テート)、そして1962年(昭和37年)に、このホテルオークラ、1963年(昭和38年)に赤坂に
東京ヒルトンホテル(ビートルズが泊まったことで有名、後に新宿副都心へ移転)、1964年(昭和39年)に
ホテル高輪、東京プリンスホテル、ホテルニューオータニ、羽田東急ホテルなど次々に建てられて行きました。
ホテルオークラの創業者、大倉喜七朗は世界からの賓客をもてなす”もう一つの迎賓館”を造ろうと決意
します。「首都に一流のホテルがあることが、その国の文化の尺度を測る物差しになる」と語っていたそうです。建設にあたって、1958年に大成建設(旧・大倉土木)などが出資し「大成観光株式会社」が創設され、その中に設計委員会を作り、委員長に建築家の谷口吉朗が就任しました。
設計に際し、喜七郎は谷口に「平家経本摸本」を見せ「藤原期の雅を建築によって再現せよ」と注文したそうです。「日本の伝統と近代的ホテルの調和」という理念のもと設計は谷口吉郎を筆頭に複数の建築家の共同設計となりました。意匠には日本画家、陶芸家、ガラス工芸家達が協力しました。(障子や麻の葉模様の意匠など
和風の雰囲気を造りだした。)
主な建築家:
谷口吉郎・・・メインロビー(オークランタンと称される切子型の吊灯が美しいロビーの佇まいは幽玄の世界)
小坂秀雄・・・外観及び大宴会場(外観は特注の瓦を埋め込み、目地に”なまこ型の白磁を刷りこんだ
純日本調の仕上げ)
清水一・・・・・和風客室
伊藤喜三郎・・・・中宴会場
「ホテルオークラは建物まるごと全部が、建築家達が共同で練り上げた巨大な美術工芸品」と
いわれる、所以です。
1962年(昭和37年)、大倉喜七朗の最後の夢を託したホテルオークラ本館が竣工・開業します。
日本の伝統的なデザインモチーフを巧みに用いた都市型大型ホテルの誕生です。
喜七朗80歳の時のことです。初代社長には野田岩次郎が就任しました。
そして喜七郎が”もう一つの迎賓館”と望んだように、世界各地からの賓客、各国の元首、首相、大統領など
が泊まるようになっていきました。日本の伝統美に彩られたこのホテルを気に入ったある元首などは、お忍びで何回も泊まりにきたそうです。
1973年(昭和48年)には地上13階地下3階の別館(South Wing)がオープンします。本館同様、別館も
しっとり落ち着いた日本的な佇まいになっています。
私も仕事関係でよく来た場所ですし、個人的にもオーキッドバーなど懐かしい思い出が多々あります。
今回久し振りに訪れましたが、若い頃には気が付かなかった、建物内外の趣向を凝らした数々の和風の美を
ゆっくり眺めた時、感動を覚えました。
現在の東京は外資系の高層ホテルが乱立していますが、ホテルオークラが高層化される日はまず無いと思い
ます。なぜならこの建物は日本伝統文化の証であり、宝物だと思うからです。
ホテルオークラのHPの冒頭には、こう書かれています。
「日本が愛する日本と、世界が愛する日本を」・・・。