Quantcast
Channel: ☆夢織人の街TOKYO散歩&思い出の場所Ⅱ
Viewing all 1328 articles
Browse latest View live

☆新宿中央公園~その1

$
0
0
今まで述べてきた「十二社 熊野神社」は、実際は新宿中央公園の中にあるのです。もちろん、以前はこの辺りから、新宿副都心の高層ビル街、新宿西口、東口、歌舞伎町辺りまで熊野神社が所有していた土地だと思われます。
「新宿中央公園」は都庁やホテルの裏側に広がる樹木の多い広い公園です。公園通りと北通り、十二社通りに
囲まれている公園です。

イメージ 1
                   北通りの歩道の横が「新宿中央公園です」

イメージ 2
                          新宿中央公園一帯の柱

イメージ 3
周辺案内図

イメージ 4
木々の間から見える高層ビル

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 6

イメージ 9

イメージ 5
遠くには広場で遊ぶ人々が見える。



今まであまり来たことが無かった「新宿中央公園」です。いつも脇を通り過ぎるくらいでした。

熊野神社参拝の後、今回、初めて公園の中まで足を踏み入れてみました。

予想していたよりも広大で、木々が多いことに驚きました。

この写真を撮った時は昨年の12月中旬でしたが、イチョウの木の葉はまだ黄色く、地面にははらはらと落ちた
落ち葉が黄色いじゅうたんのようになっていて綺麗な光景です。

秋晴れのような穏やかな日で、寒さも余り感じず、空は青く晴れ渡り気持のよい午後でした。

静かで、ここが新宿だとは思えないような気分にさせられます。

大きな広場では、人々が日なたぼっこしていたり、子供や親が楽しそうに遊んでいるのが見えました。
ここは雑多な新宿の街の中のオアシスなのです。

☆新宿中央公園~その2、白糸の滝と写真工業発祥の地の碑

$
0
0
新宿中央公園の続きです。

イメージ 1
                              中央公園案内図

イメージ 2

イメージ 3
木々の向こうに見えるのが東京都庁

イメージ 4
東京都庁の後ろの高層ビルも見えます。

イメージ 5
新宿 白糸の滝

イメージ 6
お水は流れています

イメージ 10
こちらは「新宿 ナイアガラの滝」(新宿区HPより)

イメージ 7

イメージ 9

イメージ 8
写真工業発祥の地の碑、小西六写真工業(現コニカミノルタ)の工場がありました。


北通りに接した付近から右にどんどん向かって行くと、都庁の建物がすぐそばに見えてきます。

そして「新宿  白糸の滝」なるものがあります。写真に撮ると滝から水が流れていないように見えますが、
実際は少しずつ流れています。きっと昔、こお辺りにあった滝の名残として造られたのでしょう。
「新宿 ナイアガラの滝」もあります。

滝の奥のイチョウの並木道を進んで行くと、「写真工業発祥の地」の碑がある場所に出ました。

「写真工業発祥の地」と聞いて、以前、私のブログの友人のお父様がここに在ったカメラ会社で働いていたと
いう事を思い出していました。その当時はまだ「淀橋浄水場」があったり、玉川上水の引き水や湧き水もあったと思うので”良質な水”が必要なカメラ工業には適したと思われます。

ひとつ残念なのは、確か「淀橋浄水場」の記念碑もあったと思うのですが、探せませんでした。
次回は、この碑を探しに来なければと思っています。

両親が住んでいた十二社通り付近、熊野神社そして淀橋浄水場後に建つ高層ビル群、角筈や淀橋という地名など新宿西口の歴史が様々に浮かんできます。



☆写真工業発祥の地と中央公園について

 1902年(明治35年) 小西本店(後の小西六写真工業)の写真用機材製造部門である”六桜社”の工場が
                この地に竣工。

 1962年(昭和36年) 新宿副都心計画の一環として、工場移転。公園としての整備が始まる。

 1968年(昭和43年) 東京都立の公園として開園。

 1975年(昭和50年) 新宿区に移管 




☆新宿の「角筈」と「淀橋」という地名について

$
0
0
今までの私の記事の中で、「角筈(つのはず)」や「淀橋」が出て来ていますが、その歴史を書いてみたいと
思います。

イメージ 1

              江戸時代の地図に「角筈村」と「淀橋町」が記載されています。

☆角筈村
 
 江戸時代~明治時代のこの辺りは江戸・東京の場末で田舎でした。新宿西口一帯は「角筈村」と呼ばれ、
 周辺は武蔵野が広がる中に林や田畑が並ぶ牧歌的な村落が点在していました。
 農家の軒下から富士山がよく見えたそうです。
 明治4年、東京府に編入、明治11年、「東京府南多摩郡角筈村」になる。
 明治18年、甲武線「新宿駅」開業
 明治22年、角筈村、柏木村、内藤新宿の一部が合併し「淀橋町」になる。
 昭和7年  東京市に編入。淀橋町、大久保町、落合町、戸塚町が合併し「淀橋区」となる。
         (その当時の東京市は35区あった。)     
 但し、角筈という地名は西新宿だけではなく、新宿駅前や現在の新宿伊勢丹まで「角筈」と呼ばれていた。
 昭和22年、淀橋区、牛込区、四つ谷区が合併して「新宿区」となる。
 現在、角筈の名前は「角筈区民センター」に残されている。

イメージ 2
                (わくわく西新宿1丁目商店街振興会WEBサイトから資料をお借りしました)


☆淀橋町

 「淀橋」は青梅街道が神田川をまたぐ橋のこと。明治時代は東京府豊玉郡淀橋町(現在の西新宿、北新宿の
 一部)となっていた。(明治22年、角筈村、柏木村、内藤新宿の1部が合併し淀橋町となっていた。)
 昭和7年、東京市に編入。淀橋町、大久保町、落合町、戸塚町が合併し「淀橋区となる。
 「淀橋浄水場が無くなり、今現在、この地名が残っているのは「ヨドバシカメラ」、東京都中央卸売り市場淀橋、   
 淀橋第四小学校のみとなった。淀橋第二小学校跡は京王プラザホテル正面前の「ファースト・ウエストビル」に
 なり、このビルの3Fに小学校の歴史資料が展示されている。

イメージ 3
                            淀橋区の地図



☆ヨドバシカメラの歴史

イメージ 4

 1960年(昭和35年)4月、渋谷区本町にて「藤沢写真商会」を創業。
 1967年(昭和42年)7月、東京都新宿区淀橋(・西新宿)にて株式会社「淀橋写真商会」を設立。
 1971年(昭和46年)、小売り部門を創設。小売り販売開始。
 1974年(昭和49年) 株式会社「ヨドバシカメラ」に改称。
 1975年(昭和50年) 11月、新宿西口本店(現・マルチメディア館)オープン
 その後は都内各地にとどまらず、全国に店舗を展開中。
 本社は東京都新宿区北新宿
 

☆淀橋浄水場と東京ガスのガスタンクの思い出

$
0
0
以前にも書きましたが、再度記事にさせて頂きます。

イメージ 1
                  かつて、現在の新宿福都心辺りにあった「淀橋浄水場」

イメージ 7
                    文化服装学院とガスタンクと淀橋浄水場

イメージ 2

イメージ 3
(わくわく西新宿WEBサイトからお借りしました。)

イメージ 4
地上を走る京王線と東京ガスのガスタンク(出典:新宿郷土博物館)

イメージ 5
上の写真の現在

イメージ 6
かつてのガスタンクは「パークハイアット・パークタワー(52階)に。(丹下健三設計)



「淀橋上水場」は新宿区角筈3丁目1番地(現西新宿2丁目)にありました。
明治時代、羽村から流れてくる玉川上水の水質が悪くなり、病原菌の感染の恐れもあったため浄水場の建設が
必須となり、角筈村の林や田畑を切り開き、整備し浄水場を造りました。

1898年(明治31年)、12月31日に通水(原水は玉川上水)
それから約67年間、東京府民、東京都民の水道の安全のため働き続けたのです。
小学生の頃、都内見学でこの浄水場を訪れた時のことは今でも忘れません。まるでおおきな湖のようでした。
木陰でお弁当を食べたことが今ではとても懐かしく思い出されます。

この広大な場所に「新宿副都心計画」が持ち上がり、1965年(昭和40年)3月31日にその役目を終えました。
その跡地には、昭和46年の「京王プラザホテル」が竣工し、その後、高層ビルが次々と建てられるようになったのです。そして東京都庁など高層ビルが乱立する新宿副都心が完成し、昔の面影をもうどこにも見る事は出来ません。但し、今でも都庁のそばに「東京都水道局淀橋給水所」は残っています。地震などの緊急時の時のためのようです。

一方の甲州街道沿いにあった2基の大きな東京ガスのガスタンクは「梅屋敷銀世界」の跡地に、明治44年、
東京ガスの淀橋供給所として始まりました。この大きなタンクのある風景もとても懐かしいです。
このガスタンクは平成2年(1990年)まであったそうです。約80年も稼働していたことになります。
この事には驚きを覚えました。最後にお別れに行かなかったことが少々悔やまれます。

現在は52階建ての「パークタワー、パークハイアット」(丹下健三設計)になっています。
この高層ビルは東京ガスが所有しており、1階には東京ガスショールームがあります、最上部はホテルに
なっています。FC東京ファンの私としては嬉しい建物なのですが、やはりガスタンクの在る風景も大好き
でした。ガスタンクをバックに甲州街道の地上を走っていたという京王電鉄の姿は知りませんが、古き良き時代の新宿の歴史を、しみじみ感じます。

☆新宿 角筈にあった美空ひばりと吉永小百合の母校

$
0
0
現在のJR新宿駅西口から奥は「角筈」と呼ばれていました。そして淀橋浄水場の近くに5校、学校がありました。

イメージ 1
              昔の地図(日本中学の説明ですが、他の学校も記載されています。)
                     出典:http://nuhongakuen.jp/about/history/html

イメージ 2
                       小田急ハルクからそう遠くない場所です。

イメージ 3
                    コクーンタワーの隣のエルタワー辺りにありました

イメージ 6
                               新宿エルタワー

イメージ 4
                           以前、数校の学校が存在した方向

イメージ 5
                          新宿の高層ビル群


以前、西新宿に「精華女子高等学校」と言う私立高校がありました。
昔、私が西新宿の少人数制の外人講師による英会話スクールに通っていた頃、道路を挟んだ向こう側にあったのを覚えています。小田急ハルクの斜め前の三角形の土地にあったように思います。
精華女子高等学校は少しだけ小高くなっっていた部分にあったように記憶しています。
その学校は「淀橋上水場」のすぐそばにありました。

精華女子高等学校は歌手や女優など10代の芸能人やモデルが多く通う学校として有名な女子校でした。
特にあの吉永小百合さんが通っていたという事はあまりにも有名でした。(吉永小百合さんは、名門「都立駒場
高校から編入されましたが、女優業が忙しく中退されています。その後、大学能力検定試験を受け早稲田大学の2部歴史部西洋史科に進学され、女優業と両立されていたという頭脳明晰で努力家の方です。)

イメージ 7

その後、数年経ってからその学校は忽然と消え去っていて、高層ビル群になっていたので、その後どうなったのだろうと気にかけていました。今回、「角筈」という地名を調べているうちに、この学校のその後が判りました。
そして明治時代からの歴史も判明しました。

「精華女子高等学校」の歩み

明治16年(1883年)  新潟出身のキリスト教主義の教育者の加藤敏子さんという女性が「女子独立校」という名の学校を
                新宿の角筈に開校。2階建ての別荘風の洋館のような校舎だった。
                (学校の名前を聞いただけでも女子の独立を願う気持が伝わってきます。)

1明治18年(1885年)  甲武線、新宿駅開業

明治31年(1898年)   「精華学園」と学校名改称

明治32年(1899年)    内村鑑三が校長に就任

明治43年(1910年)    精華高等女子校に改称
                 その後、「精華学園女子高等学校」に改称。

昭和43年(1968年)    新宿副都心計画のため新宿区柏木(北新宿1丁目)に移転

昭和48年(1973年)    千葉県市原市に移転、精華女子高等学校に改称。

昭和49年(1974年)     東海大学と提携、東海精華女子高等学校に改称

1986年           男女共学になり、校名が「東海大付属望洋高校に改称、野球強豪校になる



☆精華女子高校に通っていた、卒業した芸能人

  美空ひばり、吉永小百合、星由里子、小川知子、中尾ミエ、落合恵子などが有名です。

  美空ひばりさんの事は知らなかったので、びっくりしました。ひばりさんは精華を卒業されています。

  ジャニーズ系は初代グループ「ジャニーズ」から現在に至るまで、中野の「堀越」が多いです。

  もう一つ驚いたのは「女子独立校」がいつの間にか「東海大付属望洋学園」という野球の強豪校に
  なっていたことです。このことは最近まで全く知りませんでした。

☆精華女子高等学校の近くにあった学校

  日本中学校(移転し現・日本学園中学・高校に)
  東京女子大学(杉並区に移転)
  明治学院神学部(移転)
  工学院(旧・工手校)、工学院大学として現在も新宿にある。

  以上の4校に加えて精華女子校の合わせて5校が、角筈の淀橋浄水場のすぐそばにあったのです。
  そしてもっと、驚くべきことは、この辺りには大王クラスの”巨大古墳”がかつて存在していた事です。
  JR新宿駅前の小田急ハルク辺りから、これらの学校が在った辺りまで古墳だったらしいのですが、
  古墳は何の調査もされず削られてしまったようです。今記憶をたどると、精華女子校は少し小高い所に
  あったように 思うので、やはり古墳の跡だったのかも知れません。
  東京都内には、このように大王クラスの巨大古墳が幾つもあったらしいのですが、歴史から抹殺されて
  しまったようです。「角筈」や新宿界隈のミステリーのような話は中々面白いものがあります。
  今後も調べてみたいと思っています。
  





☆角筈の荻原碌山(守衛)のアトリエ 「忘却庵」~黒光への報われぬ愛

$
0
0
私には愛する男性が4人います。詩人で建築家の立原道造、画家の中村彜(つね)、画家の佐伯祐三、そして
彫刻家の荻原守衛です。どの方々も若くして亡くなられたという共通点があります。
角筈(現・西新宿)の高層ビル街を歩きながら、彫刻家の荻原碌山に思いを馳せていました。
明治時代、角筈の地に碌山のアトリエがありました。

イメージ 1
                        彫刻家だった荻原碌山(守衛)

イメージ 2
                           少女時代の相馬黒光(良)


日本のロダンと呼ばれた荻原碌山(守衛) [1879-1910、30歳没 ] は信州安曇野の生まれです。

彼と後の「新宿中村屋」を創設した相馬黒光(良)との出会いは、安曇野の道端で絵を描いている時のことでした。美しく洗練された5歳年上の黒光と夫の相馬愛蔵との交流により、彼は東京に出て画家を目ざすことになります。信州での生活に飽き足らなかった相馬夫妻は一足先に上京し、明治34年に帝大(現・東大)正門前に
「中村屋」というパン屋をオープンしました。私のブログの先輩であるT氏によると、東大正門前の喫茶店「こころ」が当時の中村屋の店舗だったと教えて頂きました。お店の奥には今でも相馬夫妻がパンを焼いた窯などがあるそうです。クリームパンやクリームワッフルが東大の学生に人気がありお店は繁盛し、明治40年には新宿に
支店を出すまでになりました。そんな相馬夫妻を追うように荻原守衛も上京してきたのです。

最初は画家志望だった守衛はニューヨークなどで勉強しますが、フランスに渡ってからはロダンの彫刻に感銘を
受け彫刻家を目指すことになります。友人の高村光太郎、戸張弧鴈、中原悌三郎などもロダンに衝撃を受けていました。2度目のフランス行きでは直接ロダンに会い、ロダンも彼を弟子として認め、指導していたようです。

守衛はその後日本に戻り、角筈の野原にアトリエ「オブリビオン(忘却庵)」を建て、政策に励むようになります。
黒光と再会した守衛は彼女にもっと惹かれて行きます。黒光の夫の愛蔵は家には殆どいず浮気三昧、そんな
彼女を助け、午後は黒光の子供達の面倒を見、お店の手伝いをしていたとのこと。お菓子の包装や箱詰めまで
手伝っていたそうです。守衛の黒光への愛は深まるばかりでしたが、黒光は夫とは何故か離婚する気持はなかったようです。夫の浮気を度々相談された守衛は「何故、別れないのか」と詰め寄ったこともあるそうですが、
結局彼女は離婚という道を選びませんでした。この事が次第に守衛を苦悩へと追いやって行くのです。

愛する女性の苦しみ、悲しみ、絶望感を知りながら、かたや自分の愛は心の中に押し留めなければならなかった守衛の苦悩はいかんばかりだったでしょうか。この頃の黒光の気持がどんなものだったかは推察できませんが、ここが議論の分かれる所で、黒光は決してて優しい女性ではなかった、勝気で男を惑わせる、手玉に取る
ような女性だったという意見もあります。守衛の愛情は勿論解っていたと思います。それでも浮気夫と別れなかったのは、子供達のことだけではなく、新宿中村屋を守りたかたtのではと私は推察するのですが・・・:。

黒光さんは明治時代においては珍しく、その美貌とは裏腹に男勝りの勝気な独立した自我を持つ女性であり、
したたかな面も持っていた女性だったと思われます。”黒光”という通名は恩師から自分の目立つ部分を抑えるようにと言われ付けたそうです。そして守衛は愛を得られない苦しみにもがきながらも制作に打ち込みます。
そして出来上がったのが「女」像(重要文化財)です。この女性は黒光がモデルだとよく言われていますが、実際
そうだと思います。守衛亡き後にこの像を見た相馬家の子供達は「お母さんだ、お母さんだ」と言っていたそうですが、何ともせつない話です。「女」像は絶望に苛まれながらも上を向き希望に向かっているような姿に見えます。この像が完成してからほどなく、中村屋の居間で黒光や愛蔵と談笑している最中、大量の血を吐き彼は
その日のうちになく亡くなってしまうのです。結核による死だとか、いや自殺だったとか色々言われていますが、私は彼の”魂の自殺”だったと思っています。
             
イメージ 3
                           ”女”像(重要文化財)

イメージ 4
                       荻原碌山(守衛)と制作中の”女”像

この”女”像や他の彫刻を制作した角筈にあった守衛のアトリエ「忘却庵」は一体今の西新宿のどの辺りに
あったのだろうと思いながら、高層ビル群を私はさまよい歩いていました。そして涙がぼろぼろこぼれて
止まりません。守衛の友人の高村光太郎が黒光を「あなたが彼を殺した」と責めたように、私も黒光さん、なぜ
彼の愛を受け入れなかったのか・・・と問いただしたい気持で一杯になりました。
30歳と5か月、余りにも早すぎる守衛の死です・・・・。今からもう107年前の事なのに、こんなに悲しみを覚える
のは何故でしょうか・・・。

守衛の死後、黒光は戸張弧鴈とすぐアトリエに行き、机の引き出しの鍵を開け、日記帳を取り出し、1枚1枚
燃やしたそうです。そこには何が書かれていたのか・・・多分、黒光への愛の告白だったと思います。
黒光はその中身を見ようとせず、親友の弧鴈は泣きながら燃やしてていたそうですが、黒光さんは平然と焼いていたそうです。角筈の野原に煙が立ち昇って行く様子が、守衛の魂が静かに天に向かって行く様子がまざまざと見えてくるような気がしました。もしかしたら今でも彼の魂はこの角筈と呼ばれた地をさまよっているかも知れません。それとも天国で黒光さんと幸せに暮らしているかも知れません。

長くなってしまいましたが、次回もこの話を続けさせて頂きます。

☆荻原碌山(守衛)と新宿中村屋

$
0
0
前の記事の続きです。長くなって申し訳ありません。

イメージ 5
                          安曇野にある「碌山美術館」


イメージ 2

イメージ 1
高村光太郎の詩 「荻原守衛」

イメージ 3


イメージ 4
中村屋HPよりお借りしました。

イメージ 6
建て直す前の新宿中村屋

イメージ 7

イメージ 8
                   2014年に建て替えられた「新宿中村屋ビル」


私が荻原碌山(守衛)の事を知ったのはもう何十年も前に読んだ臼井吉見氏作の「安曇野」でした。
確かハードカバーで5巻ほどあったと思いますが、登場人物が「新宿中村屋」創始者の相馬愛蔵・黒光夫妻
や、中村屋サロンに出入りしていた芸術家などの話が面白くて一気に読みました。そして気が付いたら荻原守衛や中村彜の魅力に取りつかれていました。また女性としての黒光さんの生き方にも大変興味を覚えました。

その数年後、松本に行った際、大糸線に乗って穂高駅で下車し、憧れだった「碌山美術館」を訪れました。
遠くにアルプスを望む初夏の「碌山美術館」は緑の蔦がからまる、まるでチャペルのような建物でした。
中に入って、この彼の故郷”安曇野”にふさわしい美術館だと心から思い、そして守衛の魂が静かに眠っている
ような安堵感を覚えたのです。ただ、ただ、感動するのみでした。彼の作品のみならず、彼の人柄から彼の
愛まで彼の全てが沢山詰まっているような美術館でした。1回しか訪れていませんが、また何としてでも行きたいと思っています。

そして「新宿中村屋」は創業115周年を迎え、2014年には以前の建物が取り壊され新しいビルとなりました。
子供の頃から「新宿中村屋」には行っていたので、昔の建物が取り壊されるのは悲しい気もしました。
2階で特製チキンカレーなどを食べたことが今はもう懐かしい思い出になってしまいました。

新しいビルの3Fには「中村屋サロン美術館」も出来ました。サロンといえば、荻原守衛亡き後、黒光さんは
中村屋のサロンの女主人として光輝いていったのです。多くの芸術家がここから羽ばたいて行きました。

その間にも一時、中村屋裏のアトリエに住んでいた画家の中村彜と相馬家の長女の恋は黒光さんに引き裂かれ、中村彜は苦しみ悩んだあげく30代で肺結核のため下落合のアトリエで亡くなりました。
「骸骨を持った自画像」(大原美術館蔵)やロシアからの亡命者エロシェンコの絵などは高い評価を受けています。そして中村屋のカレーが一躍有名になる元となたtインドの革命運動家ラス・ボースをかくまったり、その
ボースと長女を強引に結婚させたり、黒光さんらしい生き方をしていました。黒光さんの人生が幸せだったのかどうかは判りませんが、愛蔵氏との間に8人もの子供を産み、亡くし、残ったのは3人だけだったそうです。
自分が生きたいように生きた彼女ですが、晩年は家族にすまなかったという思いもあったようです。

中村屋のお菓子の一つに「碌山」という和菓子がありますが、それはかつて彼女を愛した荻原碌山(守衛)への
懺悔の気持の現れだったのでしょうか。今でもこの「碌山」のお菓子を買うと色々な思いが湧いてきます。

イメージ 9
                             和菓子の「碌山」


荻原碌山(守衛)を偲ぶ時、私はいつも国立近代美術館にある”女”像に会いに行っていましたが、
黒光さんとの事を思うと複雑な気持にもさせられます。守衛は黒光さんのために命を削ったような気がするから
です。でもあの像には、やはり守衛の命と魂と愛が込められていると思い納得せざるをえません。

新宿中村屋のビルが新しくなってから、まだ一度も中村屋を訪れたことはありません。
今度、新宿に行ったら訪れ、新しい中村屋ビルに行ってみたいです。




☆甲州街道沿いの珈琲「ドトール」

$
0
0
新宿の記事も今回はこの辺りで終わらせて頂きます。歩き疲れて最後に入ったのはいつもの「ドトール」でした。

イメージ 1
                        写真が見事にボケました。

イメージ 2
                         甲州街道沿いにあります。

イメージ 3
                                   横側

イメージ 4
           いつものジャーマンドッグです。お腹がすいていたのでサンドイッチも。

イメージ 5
近くのバスターミナル「バスタ」


甲州街道から十二社通り、珈琲ブラジル、熊野神社、新宿中央公園などを散策し、中央の高層ビル街ではなく
再び甲州街道へと戻ってきました。

もう暗かったせいか、12社通りから甲州街道に曲がる道路を間違えて代々木まで行きかけてしまいました。
ドコモタワーのビルの灯かりが真近に見えてきたので慌てて戻りましたが、その辺りにもう明治神宮の石灯篭があって、西側にも参道がある事に初めて気が付きました。家々の番地を見ると渋谷区代々木でした。
次回はその間違った通りというか参道をたどって明治神宮まで行ってみたいと思います。

以前にも書きましたが、甲州街道の両側は片方は新宿区、片方は渋谷区なのです。文化服装学院も番地は
代々木です。新宿高島屋も住所は渋谷区代々木だったと思います。代々木も色々思い出があるのでまた
ご紹介出来ればと思っています。

12月の日暮れは早く、既に真っ暗でお店を探すのも寒く、以前入ったことのある「ドトール」へ入り冷えきった
身体を温かな珈琲で温めました。こういう時に各街角にあるドトールは本当に便利です。

今まで関東各地のドトールに入りましたが、一番印象に残っているのは東大構内の安田講堂裏手にある小さなドトールでした。最近、東大には行っていないのでまだお店が在るかどうか判りませんが、にわか東大生気分に
なるのには、もってこいのドトールです(笑)
一番好きなドトールは国立駅近くの大学通りにあるドトールです。窓際に座ると四季の移り代わり、春の桜、
初夏の新緑の木々、秋の紅葉、冬のクリスマスイルミネーションがすぐ近くに見ることが出来ます。
横須賀のドトールも思い出に残っています。こうやってまた行く先々でお世話になると思います。

昔風の喫茶店や珈琲店が本当は一番好きですが、街歩きで疲れた足を休められる、ドトール、エクセルシオ―ルカフェ、ベローチェ、スタバ、タリーズなどのチェーンコーヒー店に感謝します。

☆急に食べたくなるインスタントラーメン&うどん

$
0
0
時々、急にインスタントラーメンが食べたくなる時があります。

イメージ 1
                    青森 味噌カレーミルクーラーメン(複雑すぎる)

イメージ 2
            お味噌とカレーとミルクが結構合っていて美味しく思いました。

イメージ 3
                    冬はやはり、あつあつの「豚汁」うどんですね!

イメージ 4
                             でか盛です(笑)

イメージ 6
                          定番のマルちゃんの麺づくり

イメージ 7
               旅麺シリーズの「喜多方ラーメン」(魚介醤油ラーメン

イメージ 8
                      旅麺シリーズ「長崎中華街 ちゃんぽん」

イメージ 5
一平ちゃん 夜店の焼きそば「ショートケーキ味」

イメージ 9
甘~い きつねうどん(バレンタイン用?)



PCに向かっている夜更けなど、突然インスタントラーメンやうどんなどを食べたくなる時があります。

寒い冬は味噌ラーメンや豚汁うどんなどが食べたくなるので、ストックしていた買い置きの物から気分に応じて
選んで食べます。

青森の味噌カレーミルクラーメンは不思議な味でしたが、結構はまるかも知れません。
ミルクとラーメンって意外と合うものなんですよね。

昔、札幌のすすき野のラーメン店で初めてお目にかかった、その名も「乳ラーメン」にネーミングには驚き
ましたが、北海道産の牛乳が入っているだけにとても美味しいラーメンでした。また食べたい~です!

マルちゃんの麺づくりは、醤油味も味噌味も塩味も全部好きで、よく食べます。

旅麺シリーズは「札幌コーン味噌ラーメン」、「喜多方ラーメン」、「京都のとんこつラーメン」、「長崎ちゃんぽん」
などがあり、どれも美味しいと思いました。

ネットで話題になっていた「一平ちゃん夜店の焼きそば ショートケーキ味」はまだ怖くて食べていません(笑)
焼きそばとショートケーキ?一体どんな味なのか、食べたらまたご報告致します。

そして最後の写真の「マルちゃんの甘~い きつねうどん」もネットで話題になっていたので、スーパーで見つけた時はすぐ買ってしまいました。何ともミーハーな私です。こちらもまだ食べていません。
ハートマークが付いているのでバレンタインに恋人同士が食べるのでしょうか・・・・。
私は一人で今日、食べます!こちらも味は後ほど、ご報告致します。

実はこれも話題のペヤングのバレンタイン用 「チョコレート焼きそば」も買いました(笑)
本当に何歳になっても新しもの好きな私で、少々反省しております。

なんだかんだで、1月も末になりつつあります。インフルエンザが全国で猛烈に流行しているそうなので
皆様、ご自愛ください♪




☆懐かしい昔のお菓子~その①

$
0
0

最近、子供の頃に食べたお菓子に出会うと、懐かしさの余り買ってしまいます。

イメージ 1
                  今風の駄菓子屋さんの懐かしいお菓子の数々

イメージ 2
                   麩菓子やカレーせんべいや、カルメ焼きが懐かしい

イメージ 7
                             ベビーカステラ

イメージ 8
                       ソフトクリーム型のミニお菓子

イメージ 9
                              水飴

イメージ 17
                  バナナチョコ、太鼓焼き、コーヒー牛乳、アンズ飴など

イメージ 11
明治カルミン

イメージ 19
                             ラムネ菓子

イメージ 21
                           サイコロキャラメル

イメージ 20
                                 ウエハース

イメージ 10
                             ミニマドレーヌ


イメージ 23
                               昔風ビスケット

イメージ 24
不二家フランスキャラメル

イメージ 31
                    フランスキャラメル(女の子の絵が可愛かった!)

イメージ 25
                              チューブチョコ

イメージ 26
                             森永ソフトチョコ

イメージ 27
                              森永ミルクキャラメル

イメージ 28

イメージ 29
                       明治クリームキャラメル

イメージ 32

イメージ 30
                         グリコアーモンドキャラメル

イメージ 33
サクマドロップス
                                                                                         
イメージ 12
                               五家寶

イメージ 13
父の大好物でした。

イメージ 16
                              松茸菓子

イメージ 3
                       赤ちゃんの時に食べた?玉子ボーロ

イメージ 4

イメージ 5
きな粉の”ねじり棒”

イメージ 6
今でも大好物です。

イメージ 18
クリームパピヨ

イメージ 22
昔風のビスケット

イメージ 14
フローレット(昔はミニバナナと呼んでいました。)

イメージ 15
ルックチョコレート

                              
子供の頃、私が大好きだったお菓子を集めてみました。過去に記事にしたお菓子もあります。

今は無くなってしまったり、パッケージが変わったりしているお菓子もありますが、殆どのお菓子は今でも
買えるのが嬉しく思います。永遠のベストセラーですね。

不二家のフランスキャラメルが無くなってしまったのは残念でなりません。女の子の絵が可愛くて大好きな
キャラメルでした。

昔のお菓子の中で、フルーツの形(メロンやりんご)のプラスチックの入れ物に入って売っていた「ヤシマのボンボン」だけは消息不明です。日本橋三越の地下の食料品売り場で買ってもらっていた記憶があり、とても好きな
お菓子でした。

こうやって昔のお菓子を探して行くときりがないのですが、今後も探して記事にしたいと思って
います。

                      


                              

☆懐かしいお菓子&デザート

$
0
0
引き続き懐かしいお菓子やデザートなどです。

イメージ 1
                お子様ランチ(現在の物ですが、昔に近いように思います。)

イメージ 4
i                        イチゴのクリームソーダ(幼い頃の大好物)

イメージ 5
                             昔風パウンドケーキ

イメージ 6
                              ミニクリスマスケーキ

イメージ 11
                    昔に近いデコレーションケーキ(浅草アンヂェラスさん)

イメージ 7
                     昔風デコレーションケーキ(薔薇の花が必ず付いていました。)

イメージ 13
                 銀の器のバニラアイスクリーム、ウエハース付き

イメージ 8
             チョコレートパフェ(やはり子供の頃の大好物)~新宿の珈琲店「タイム」さん

イメージ 10
                    こちらもチョコレートパフェ(浅草アンヂェラスさん)
                             
イメージ 2
                         プリンアラモード(池袋のタカセさん)

イメージ 12
フルーツポンチ(フルーツパーラーでよく食べました。)

イメージ 14
みかんかん(家でよく作ってもらっていました。)


イメージ 3
                             不二家ネクター

イメージ 9
                            懐かしいバヤリースオレンジジュース



子供の頃、好きだったケーキやデザート、ドリンク類を集めてみました。

今でもあるものばかりなので、昔からあるお店に行くとよく注文したり、買ったりしています。
苺のクリームソーダとチョコレートパフェは特別、好きでした。フルーツポンチもよく食べていましたが、
今は果物が豊富なので余り食べられていないようにも思います。
バニラアイスクリームが高価な時代で、銀の器に乗っていましたね。

デコレーションケーキはバタークリームが主で、薔薇の花とチェリーと緑の葉が乗っていました。

「お子様ランチ」は大人では注文できないといつも断られ残念です。
チキンライスは山型で国旗が乗っていないとダメですよね。
日本橋三越では大人でも食べられると聞きましたので、一度行ってみたいと思っています。

家で姉がよく作ってくれたプリンや”みかんかん”なども懐かしいです。

ドリンク類はラムネ、三ツ矢サイダー、バヤリースオレンヂ、不二家ネクター、カルピスが好きでした。
今でも販売されているのが嬉しく思います。

☆懐かしいお菓子&食べ物~③和菓子

$
0
0
前の記事の続きです。

イメージ 1
                        寒餅(今頃、焼いてよく食べていました。)

イメージ 20

イメージ 14
                          冬の寒い日には酒まんじゅう

イメージ 17
                      紅白饅頭(小学校でよくもらいました。)

イメージ 4
                                桜餅

イメージ 6
                             桜饅頭と三色団子

イメージ 7
                                すあま

イメージ 10
                               鳥の子

イメージ 11
                       桃の節句の時に飾る「金華糖」


イメージ 13
                            ぼた餅(田舎風)

イメージ 21
                                赤福

イメージ 22
                            鮎菓子「若あゆ」

イメージ 8
阿佐ヶ谷「うさぎや」のどら焼きの入っている袋

イメージ 9
阿佐ヶ谷うさぎやのどら焼き

イメージ 5
                                中村屋の月餅

イメージ 18
                             東大「赤門もち」など

イメージ 12
                              柏餅

イメージ 2
お砂糖とザラメのお煎餅

イメージ 3
瓦煎餅や味噌煎餅

イメージ 15
天津甘栗

イメージ 16
甘栗の袋

イメージ 19
好物「アンポ干柿」



私は甘いものが大好きだった父の影響をかなり受けているのでは・・・と思います。

父は酒まんじゅう、羊羹、芋羊羹、水羊羹、甘納豆、くず餅、横浜中華街の中華菓子などが大好きでした。
お酒が大好きな人にしては珍しいといつも思っていました。

干しバナナや干しアンズ、干し柿など、ドライフルーツも好物でした。中に葡萄が入っている「月の雫」や、
ウイスキーボンボンも好物でした。

母はチョコレート類やクッキー類、ケーキが好きだったように思います。

私も同じような物が好きなので、やはり両親の血は争えないなと思います。

一番懐かしいのは、父が甲府への出張帰りに買ってきてくれる「笹子まんじゅう」でした
「笹子まんじゅう」はJR中央線の大月駅で売っているようなので、いつの日か買いに行きたいと思っています。

この笹子饅頭は今でも、

☆昔からある懐かしいパン

$
0
0
昔からある懐かしいパンたちです。

イメージ 4
                          山崎製パン(株)のトラック

イメージ 3
                            大好きなメロンパン

イメージ 1
                              甘食(子供の頃よく食べました)

イメージ 2
                      クリームパン(神楽坂の亀井堂製)

イメージ 8
                            チョココロネ

イメージ 10
                         こちらも好物のシナモンロール

イメージ 5
                     チェリーの入ったバタークリームパン(富士ベーカリー)

イメージ 6
                        こちらは同じような市販のスペシャルサンド

イメージ 7
                 50年以上のロングセラー「スナックゴールド」(ヤマザキ)

イメージ 11
                          父の大好きだった「シベリア」

イメージ 12
                              バナナカステラ

イメージ 9
                  昔は人気のあったロシアケーキ、私は今でも大好きです。



子供の頃から一番好きだったのは何といっても「メロンパン」です。私の好きなメロンパンは皮がサクサクした
ビスケット生地で、仲にレーズンが入り、表面にザラメが沢山かかっているものです。
残念ながら、現在は余りそういった私好みのメロンパンは中々ありません。
その替りに、次から次へと新しいメロンパンが出て来て毎回驚かされます。
私の過去記事にも載せていますが、イチゴメロンパン、抹茶メロンパン、ココアメロンパン夕張メロンパン、など
よく考えると思うほど色々なメロンパンが現在も販売されています。
今後もメロンパンハンターは続けて行く所存です(笑)

子供の頃は今のようにベーカリーも少なく、種類も無く、西荻でいうと「栄喜堂」、「フランスベーカリー」、「藤の木パン」くらいしか無かったように思います。

昔風のパンというと、メロンパン、クリームパン、ジャムパン、チョコレートコロネ、あんパン、三色パン、甘食、
シベリア、あんドーナツ、ドーナツ、クリームホーン、揚げパン、揚げツイストパン、カレーパン、ジャムやピーナツバターを挟んだコッペパンなどが定番でした。

その後、ドンク、アンデルセン、リトルマーメード、ポンパドール、フロインドリーブなどの北欧風やフランス風、
ドイツ風など様々なベーカリーが出来、現在は把握できないほど沢山の有名なベーカリーがありますし、
高級ベーカリーもあります。チェーンコーヒー店でも様々なパンが置かれています。

洒落た外国人シェフのベーカリーのパンは勿論とても美味しいですが、昔ながらの素朴なパンがやはり好きです。そして「ヤマザキ」、「第一パン」、「パスコ」、「藤パン」などの市販のパンも大好きです。
最近の市販のパンはグレードが上がり、有名店の美味しさに負けていません。

知らない町を歩いていて、小さな店舗の昔風のパン屋さんがあると必ず入って買ってしまいます。
それらのパン屋さんで売られているパンは昔ながらの”昭和の香り”がするパンなのです。

そういったお店が今後もずっと在り続けるよう願っています♪



☆夢織人の街TOKYOへようこそ!2017年2月

$
0
0
いつもブログに来て頂き誠に有難うございます♪

あっという間に2月になってしまいました。東京は寒い日もあれば暖かい日もあるという感じです。
この頃は全く雪が降らず、毎日が青空の日々が続いています。

イメージ 1

2017年になり、1月から様々な事が起きています。

最近はドナルド・トランプの言動や大統領令に憤りを感じている毎日です。

世界的に大幅に変わって行く時代の節目なのか、ある種の”覚悟”を決めておかなければならないのか毎日
考えています。 大変な時代になってきたことを痛感させられます。

能天気にブログを書いていても良いものかと自問自答もします。

そんな明日も見えない混沌とした世界の中で、私なりに伝え続けて行きたいものは伝えて行きたいと思って
います。こんな時代だからこそ、日々の庶民の小さな幸せを大切にして行きたいとも思います。

インフルエンザが猛威を振るっていますので、皆様お気を付け下さい。

あたたかな春の光はもうそこまで来ているように思います。

2月も拙ブログを宜しくお願い申し上げます♪


☆再びマイホームタウン「西荻窪」の街へ~①

$
0
0
再び、我が故郷「西荻窪」に戻ります。

イメージ 1
JR西荻窪駅 南口

イメージ 2
改札口

イメージ 4

イメージ 3
南口

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8
西荻六童子めぐりの碑

イメージ 9
右手にはこけし屋

イメージ 10
左手は飲み屋街(戦後の闇市跡?)、焼き鳥屋さんが多い

イメージ 11
駅前の道

イメージ 12
行列の出来る、らーめん「はつね」

イメージ 14
左手の老舗の珈琲 「ダンテ」

イメージ 13
小学1年生の時の級友の、お兄様のお店です。店内にはジャズが流れています。


久し振りに生まれ育った故郷「西荻窪」の記事を載せさせて頂きます。前回は無くなったお店が多い事を嘆きましたが、行く度にやはり、シャッターが閉まっていたり、違うお店になったりしていて寂しさを感じます。

西荻窪駅に降り立つと、どうしても子供の頃の木造だった駅と地上を走っていた線路と電車、踏切などを
懐かしく思い出してしまいます。今は高架になり、どこにでもある普通の駅になってしまいました。

昔の駅は北口、南口と2つの改札口がありました。今は中央の一か所だけになっています。
我が家は南口方面だったので、東京方面に行く時は改札内の階段を上り、連絡通路を通って反対側の
ホームに行っていました。踏切は結構、開かずの踏切で待たされるので、いつも連絡通路を使用していました。地上のホームからでも晴れた日は富士山が見えたのを覚えています。
父が会社から帰ってくるのを、南口で待ったりしていた事を思い出します。

南口の脇にある線路沿い飲食店街は、戦後の闇市の跡に出来たと聞いたことがあります。現在も居酒屋や
焼き鳥屋がひしめいている狭い道です。駅に隣接している「西友」の南口出入り口やラーメンの「丸福」が
あります。

駅前の通りに父が贔屓にしていたBAR 「街」がありました。私もママに会わせてもらったことがあるのですが、
とても美しい方でした。かなり前にBARは閉店し、その後は東京女子大の近くに喫茶店を開き一度だけ伺い
ましたが、今はもう無いと思います。

そのBAR 「街」が在った前辺りに「らーめん はつね」があります。西荻に居た時は姉と度々訪れていました。
とても美味しいラーメンで、今でもお昼時には行列が出来ます。席が6~8隻くらいしかないので、待たされるのを覚悟でよく行っていました。

その道をもっと先に行くと左手に老舗珈琲店の「ダンテ」があります。若い頃はよく通いましたが、このお店が
小学1・2年生の頃の級友のお兄さんが経営していると知ったのは随分後の事でした。
店内は中2階があり、レトロな雰囲気で大好きなお店です。店内に流れるジャズを聴きながら珈琲を飲んで
いると時間を忘れます。その隣にある蕎麦処「鞍馬」はよくテレビなどに取り上げられますが、そのお店は
私の級友が経営するお店です。私が子供の頃は、ご両親が洋酒販売のお店とビリヤード場をやっていた
ように記憶しています。

「ダンテ」にまた珈琲を飲みに行きたいと思っています。




☆マイホームタウン「西荻窪」~その②

$
0
0
西荻窪の続きです。

イメージ 2

イメージ 1
                             駅前の「仲通り街」

イメージ 3
             昔、入り口右の手前にあったフルーツのお店「つるや」さん(閉店)

イメージ 4
                      左入り口並びにある「ポパイ」

イメージ 5
                           再び「仲通り商店街」へ

イメージ 14
            子供の頃からあるまちだ文具店(建物&内部はリニューアル)

イメージ 6
                            名物のピンクの像

イメージ 7


イメージ 15
       ジーンズ オークランド(昔はアメリカからの直輸入品が多く”アメリカ屋”と呼ばれていた。)

イメージ 8
                           閉店してしまった餃子店

イメージ 9
                   私の小学校の級友のご実家の花屋さん

イメージ 11
                            仲通りのドトール

イメージ 12
                    ドトールのコーヒーとデニッシュパン

イメージ 10
                              別の花屋さんのお正月の飾りの商品

イメージ 13
                仲通りの出口の氷屋さん(現在は閉まっている?)


西荻窪駅南口前の「仲通り」はアーケードの屋根は付いていますが、道幅が狭いい商店街です。

子供の頃は入り口の角は果物屋さん、もう片方の角は帽子屋さんで、素敵なショーウィンド―がありました。

果物屋さんの隣の女性用用品店は小学校の級友の実家のお店です。
その隣には「まちだ文具店」、昔からあるお店で、よくこのお店で文房具を買っていました。
そのまた隣には履物屋さんがあり、下駄や草履、ぽっくり、和傘などを売っていましたが閉店してしまいました。

その前あたりには佃煮の「有明」さん、こちらも閉店。中程には中華の「五十番」があり、家族でよく食べに行き
ました。そうして、反対側の出入り口に近い場所には、やはり小学校の同級生のお花屋さん、隣には同級生の
実家のクリーニング店があるなど、友人達が多く住んでいる場所でもありました。

現在、昔からのお店は段々少なくなり、今でも残っているのは「まちだ文具店」」、「フラワー田辺」、ジーンズの
オークランド(旧アメリカ屋、友人のクリー二ング店くらいだと思います。
私が好きだった小さな珈琲店もいつの間にか姿を消してしまいました。最近はラーメン店が多くなってきました。

この商店街のシンボルである「ピンクの像」も昔からあったわけではありません。
出口の横の氷屋さんも今はシャッターが閉まっているように思います。

私が生まれる前からあったと思われるこの商店街のお店が色々変わろうとも、大好きな場所です。

ドトールでコーヒーを飲むのも北口店より、自然とこちらの南口店を選んでしまいます。

駅に向かう人や駅から帰る人達で狭い商店街がいつも賑わっているのを嬉しく思います。



☆立春~そして節分と恵方巻と豆まき

$
0
0
今日は2月3日、立春です!そして節分でした。

イメージ 1
                        立春の雲ひとつ無い青空

イメージ 2
                         神社の境内の梅の花

イメージ 3
                          和菓子屋さんの貼り紙

イメージ 4
                            お店のポスター

イメージ 5
               関東でもすっかりお馴染みになった”恵方巻”のポスター

イメージ 7
                    このお店で買った「恵方巻」と「太巻き寿司」

イメージ 6
                     そして慣例通りの豆まきをしました。


立春の今日、東京は雲ひとつ無い晴天で暖かく、本当に春が来たような気持になりました。
雪が多く大変な毎日を送っていらっしゃる地域の方々には申し訳ないほど穏やかな立春です。
近くの神社の境内の梅の木の紅い花が美しく咲いていました。2月は”光の春”と呼ばれるそうです。
春が少しずつ近づいてきたような、そんな思いになりました。

「恵方巻」は東京や関東では以前はそれを節分に食べるという習慣は全くありませんでした。
家の玄関に柊の葉を飾り、夜に「鬼は外、福は内」の掛け声で豆まきするくらいでした。
焼いた鰯を食べたり、鰯のすり身の団子入りの吸い物を食べるお家もあったようですが、私の実家ではやり
ませんでした。「恵方巻」がスーパーとコンビニの戦略で関東にも浸透し始めたのは20年くらい前からでしょうか。関西では船場の花柳界でのお遊びとして始まったのが、一般家庭にも広まったと聞きました。

今日、コンビニやスーパーは「恵方巻」や「恵方スゥイ―ツ」が山のようになって販売されていました。
私が買うのは普段から太巻き寿司を買う和菓子屋さんの物なのですが、お値段が安く、美味しいこともあって
お店の前は長蛇の列でした。少々観念して、その列に並び買ってきました。

そして、夜には子供の頃から毎年行っている豆まきを今年もやりましたが、近所の家からは豆まきの気配が
感じられないので、小さな声で豆をまきました。年々、こういった風習をやらない家庭が増えているのでしょう。
TVでは成田山での豆まきやくまモンの豆まきの様子をやっていましたが、そういった場所には一度も行ったことがありません。何万人もの人が集まると聞いてびっくりしました。

午後、用事があって米軍横田基地からそう遠くない場所に居たのですが、白い機体にブルーのラインのアメリカ政府専用機が頭上を轟音と共に低空飛行で飛んで行きました。
そうです、米国の狂犬マティス”と呼ばれるマティス新国防長官が来日したのです。
立春の日の青空の彼方に白い機体は消えて行きました・・・。 今後の日本の運命やいかに・・・・。

☆2017年の立春

$
0
0
今日、2月4日(土)は立春です。

イメージ 1
                          雲ひとつない青空

イメージ 6
                             良いお天気です。

イメージ 2
                           近所の稲荷神社

イメージ 3
                             境内の紅梅

イメージ 4
                           とても綺麗です♪

イメージ 5
                          寒椿の花も満開です♪

イメージ 7
                            気分はもうお雛様です。


1昨日は節分を立春と間違えてブログをアップしてしまいました。

立春は2月4日(土)でした。申し訳ありません。

昨日は1昨日同様、雲ひとつ無い青空が広がり、太陽がまぶしいくらいでした。
2月は「光の春」と言うそうですが、まさしく陽の光は春めいていました。
木々では小鳥達のさえずりが賑やかに聞こえてきます。

大雪で辛い思いをしている地方の方々には申し訳ないほど、暖かで春めいた日でした。

歩いていると突然、風が強くなりお店の旗が倒れたりしたので、「春一番」かと思いましたが、まだ早すぎますね。

長男はなぜか台湾へ旅行、”ランタン祭り”でも見に行ったのでしょう。
台北の空港からの電話では気温が20度あり汗ばむくらいで、何と蚊が飛んでいたそうです。

節分・立春が過ぎると、もうバレンタインデー、そして短い2月が過ぎると3月のひな祭り、4月の卒業・入学シーズン、お花見、5月の節句とゴールデンウィ―ク、6月の梅雨と紫陽花の花、あっという間に半年が過ぎてしまいますね。こんな調子で2017年もきっと、あれよあれよという間に過ぎ去って行くことでしょう。

春を待つ心と共に、月日よ余り速く過ぎて行かないで欲しい・・・とつい思ってしまいます。

1日、1日をゆっくり、大切にかみしめながら、日々送って行きたいと願っています。


☆マイホームタウン西荻窪~その③西荻平和通り

$
0
0
前の記事の続きです。

イメージ 5
                         蕎麦処 「松月庵」

イメージ 2
中古レコード店
イメージ 3
                                               紅茶とケーキのお店「グレース」

イメージ 10
                       アンティ―ク小物店「Maueschen」

イメージ 7
写真を撮った頃はクリスマスシーズンでした。

イメージ 8
                         素敵な小物が沢山!

イメージ 1
            生まれる前からあるお菓子屋さん、子供時代はお世話になりました。

イメージ 11
              幼い時からお世話にbなっている果物の「中村家」さん

イメージ 4
                           古書店「にわとり文庫」

イメージ 9
                          平和通り会の街灯

イメージ 6
              昭和初期の洋館 、現在は「ギャラリ―MADO」として使われています。



西荻平和通りは西荻窪の中でも地元中の地元です。この通りを入って少し行った所に実家があります。

JR中央線の高架沿いの道路にある商店街ですが、JR中央線が地上の線路から高架化される時に道が少し
ずれなくてはならず、何軒かのお店は閉店を余儀なくされました。

現在の高架下の商店街「マイ ロード」もその後しばらくしてから出来た商店街です。

ここに写真を掲載したお店は何とか撤退をまぬがれたお店と高架後に出来たお店です。
マイロードから出た辺りにある小さなお店の数軒はァンティ―ク小物屋、洋服など可愛いお店になっています。

蕎麦処「松月庵」さんは、よく出前を頼んでいたお店です。こちらの「おかめうどん」が大好物でした。

紅茶とケーキの「グレース」さんは、昔一緒にお人形などで遊んだことのある方が自宅を立て直して女主人として経営されています。白亜の建物が素敵で大好きなお店です。紅茶とケーキも抜群に美味しいのです。

お菓子の「久保屋」さんと、果物の「中村屋」さんは幼少の頃からお世話になっています。

人見知りがひどくて内気だった私が小学校入る前、一人で唯一行けたお店はお菓子の「久保屋」さんでした。
近所で大火事があたt時は母が乳母車に乗せて「久保屋」さんに避難し、私を預かってもらいましたが、今でも
その時の光景が目に浮かびます。前代の女主人さんとは会えばまだお話しもします。今でもお元気そうなのが
嬉しく思います。中村屋さんの果物も品質が良く美味しくよく買わせて頂きました。

中村屋さんの並びの「にわとり文庫」は、外国の童話や少女小説などが多く、私好みの古書店です。

最後に掲載した戦前の古い洋館は毎日この前を通って小学校に通っていたので馴染み深く大好きな洋館ですが、築80年以上経つにも関わらず健在で、1階の1部分をギャラリー「窓」として開放されていて中に入れます。
今後のこちらでの色々な展示会が楽しみです。






☆西荻窪の解体されてしまった友人の「美粧院」

$
0
0
続きです。

イメージ 9
                               東銀座会

イメージ 1
                              東銀座会通り

イメージ 2
                 小学生の頃、友達とよく遊んでいた小道

イメージ 3
                         昔からあるお肉屋さん 「宝家」

イメージ 10

イメージ 4
私の友人の実家のお店は更地に(涙・・)

イメージ 5
思い出が消えて行きます・・・・。

イメージ 11
かつてのお店「小菊美粧院」

イメージ 12
美粧院という名前がいいですね。友人のお母様が経営されていました。

イメージ 6
シネマ通り(昔、映画館シネマ西荻があった)、角には小学校の級友の洋品店があった。

イメージ 13
昔からある小泉電気さん

イメージ 8
健在なのが嬉しいです!

イメージ 7
昔と殆ど変わっていません!

イメージ 14
亡き父がよく通っていた理髪店、今はもうありません。(数年前に撮った写真です。)

イメージ 15
和菓子の「かた岡」さん



こちらの西荻窪の「東銀座会」通りには小学校の友人達の実家が経営しているお店が沢山あったので、一番よく
遊び廻った場所でもあります。今それらのお店の多くは残念ながら閉店してしまいました。

一番最後まであった「小菊美粧院」、今でいう美容院ですがこちらの店舗も90歳まで現役で美容師をされていた
お母様が亡くなられお店は閉じられていましたが、数年そのまま残っていました。
私の友人は2階に住んでいましたが、お店の解体を決意されたようで、訪ねてみるともう更地になっていました。

小学校の頃、この美粧院の2階によく遊びに行き、友人からよくアメリカンポップスのシングルレコードを聴かせてもらっていた事を懐かしく思い出します。リッキー・ネルソンや、ジーン・ピットニ―、ボビー・ヴィーなどのレコードでした。たまに一階の美容院の部分に行って、お母様のお仕事ぶりを見せてもらう事もありました。
シャキシャキした方で、90歳まで現役の美容師さんだった事は素晴らしいことだと思います。

毎年一回ある西荻窪での同窓会には最近行っていないので友人の彼女には会っていませんが、電話で話した時にはいずれこのお店を壊す予定のような事は言っていましたが、実際に更地を見た時はショックでした。
でも仕方のないことです。時代は流れ変わり行き、人々は亡くなりこの通りもかなり様替わりしてしまいました。

小学生の頃のの思い出がどんどん無くなって行く中、昔からある電気屋さんが外装もそのままで残っている事には感激でした。この先にもまだ残っているお店があると思うので、また東銀座会に来てみたいと思っています。
Viewing all 1328 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>