デッキと連絡通路
昭和初期の立川駅前と旧式ボンネットバス
昭和7年の北口駅前風景
立川駅前の人込み
昭和29年ごろの改札風景
昭和36年頃の階段の混雑風景、学生さんは皆さん学帽かぶっていますね。
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JR立川駅北口前もかなり変わってしまいました。
子供の頃は同じ中央線でも西荻窪駅から立川駅が遠く感じられ殆ど行ったことがありませんでした。
八王子には父の知人がいたのでよく連れて行ってもらっていましたが、その当時、立川駅に降りた記憶は
ありません。その当時はどうしても立川=米軍基地というイメージが強かったように思います。
人に聞いた話によると、現在の多摩信用金庫のすぐそばまで、米軍基地のフェンスと扉があったそうですし、
米軍兵士用の色々なお店が沢山あったようです。
私が初めて立川のホームを降りたのは確か小学校2年生の遠足で、当時「西立川」にあった”農事試験場”に
行った時のことでした。立川駅から”青梅線”に乗って1つ目の駅でしたが、それでも遠いと思いました。
”青梅線”に乗ったのもそれが最初でした。
その後、高学年になってからの”御岳山登山”の時も立川から青梅線乗り換えで遠く感じていました。
ですので昔の立川駅の駅舎は全く覚えていません。写真を見るとかなりこじんまりした駅だったのですね。
叔母の入院がきっかけで立川に行くようになってからは、帰りがけに駅ビル「WILL(現・ルミネ)の地下でよく
買い物をして帰りました。1982年に出来た駅ビル「WILL]も、1992年に「ルミネ立川」に名称変更されました。
北口の風景として思い出すのは駅から延びる大通りの右手に「伊勢丹」があり、斜め前に「丸井」がありました。
駅前(今のモノレール駅辺りには)高島屋があり、並びには「長崎屋」がありました。
通りを挟んだ前には「第一デパート」がありました。第一デパートは今は取り壊され高層マンションになり全く
昔の面影がありません。そもそも「第一デパー」トが出来たのは、1964年(昭和39年)1月4日に起きた
米軍のタンクローリー車が線路とホームに突入炎上し、近くにあった個人商店はみな燃えてしまったのです。
その跡地に出来たのが「第一デパート」でした。「第一デパート」は1Fは宝飾屋やブテイックなどがあり、2F以上
は今でいう「オタクの殿堂」のような商業ビルでした。中古レコード、中古ポスターやテレカの店、ホビー用品の
「ことぶきや」、野球などのカードゲームのお店、古銭のお店など中々面白いお店が入っていました。
現在、駅のデッキのそばに「伊勢丹」、そして奥に「高島屋」、シネコンの「シネマシテイ」などがあります。
時々、駅前にあった頃の「高島屋」を思い出します。上階に不二家のレストランがあったように記憶しています。
モノレール駅建設のため、高島屋も長崎屋もすべて壊されてしまいました。
線路側にあったピザのシェーキーズやハンコ屋さんなどモノレール建設で全て無くなってしまいました。
伊勢丹の移転跡地には「ビックカメラ」が入り、丸井は随分前に撤退してしまいました。
旧伊勢丹の並びにある「フロム中武デパート」は一時休館していましたが、リニューアルされ戻ってきました!
かつての広大な米軍基地は日本側に返還され、自衛隊基地の他、昭和記念公園や防災病院ができました。
「ファーレ立川」という新ビジネス地区を創設しようとしパレスホテルなども出来ましたが、バブル崩壊後は建物を
建てる会社が集まらず、草が生い茂った空き地のまま長い間放置されたままで問題になっていました。
そのため、空き地には結局、裁判所などの公的機関が作られるようになってきました。
この数年、もっと奥には「IKEA]や「ららぽーと立川」がオープンしましたが、私はまだ一度も行ったことが無いので
一度は行ってみようかと思っています。
立川=米軍基地という概念は今はもう完全に忘れ去られたようです。