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Channel: ☆夢織人の街TOKYO散歩&思い出の場所Ⅱ
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☆東日本大震災から5年

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2016年3月11日、午後2時46分、東日本大震災は発生から5年が経ちました。

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                          5年前3月末の岩手県山田町

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山田町「3・11 ともしびのつどい」~この日の祈りを、一生の心の光に~


思えばあれからもう5年、早いものです。あの日の事は今でも鮮明に覚えています。
3月11日、午後2時46分のあのすさまじい揺れ、東京でも経験したことのない大きな揺れでした。
私は仕事中にも関わらず外に飛び出していました。一度揺れが収まってから数分してからまた大きな揺れ、
また外に出て大きな木につかまり、そばに居た老婦人を一緒に支えていました。

仕事が終わってから超満員のバスで立川駅にやっとたどり着いたものの、駅は全てシャッターが下り、その前に
大勢の人達が途方にくれて座り込んでいました。かろうじてバスは動いていたものの本数は少なく、長蛇の列の
すさなじさにバスはあきらめました。緊急避難所は国営昭和記念公園になっていましたが、とても寒い日だった
ので野外で一晩過ごすことは出来ないと思い、歩いて家に帰ることにしました。
昭和記念公園の脇を歩いていたため周りに人が殆どいず、暗い中、心細い思いで歩きまましたが、いつまでたっても昭和記念公園で改めてその広さを痛感しました。その時のことが今でもトラウマになっていてそれ以来
昭和記念公園には行っていません。

東京はたいした被害は無かったというものの九段会館の天井が崩れ亡くなった方が出たり、津田塾大学の
図書館など結構被害があり7人が亡くなっています。関東全体では61人亡くなられ今でも3人の方が行方不明
だそうです。地震の翌日から続いた食糧難や電池などの生活必需品の不足、コンビニもスーパーも商品が無く
がらーんとした売り場を呆然と見ているだけでした。お米が買えなかったことが打撃でしたし、電力を抑えるための定期的停電、暗い中での生活など色々ありました。JRの電車も社内の灯かりを消して走り、エスカレーターも
中止でした。あの頃の東京は火が消えた街でした。それでも、東北地方・福島・茨城、千葉で被害を受けられたり亡くなられた方々のことを思うと私が味わった苦労などは取るに足らないものです。

テレビや雑誌などで津波が町を襲う様子を何度も見ているうちに私の精神が少しおかしくなってきました。
ミュージシャンの方々にも数人そういった方がいて、急性外的ショックではないかと思うようになりました。
私は被災地を思い毎日泣いていました。そして自分が何もできないこと、ボランティアに行けないことにも
苛立ちを感じていました。本当は被災地に飛んで行って、親御さんを亡くされた子供達を抱きしめてあげたかった・・・など色々な思いが交錯しました。毎晩のように巨大な津波が襲ってくる夢を見てうなされました。

そしてあの福島原発の事故です。テレビを祈るような気持で見ていました。第2のチェルノブイリになるのでは
と懸念しました。あの美しい風景の福島がこんなことになるとは断腸の思いでした。

あの当時、私には他の話題でブログが書けませんでした。毎日、震災の記事ばかり書いていたように思います。
(ご覧になりたい方は書庫の「東に本大震災」をご覧頂ければ幸いです。

そして5年経った今ですが、県や地域によって復興の進み具合が違っているという事にもっと目を向けなければ
ならないと思います。未だに寒く狭い仮設住宅で暮らしていらっしゃる方々も多いのです。
震災でせっかく助かった命もその後、環境の不備などで孤独紙されたり自殺される方がいるということは何とも
やりきれない思いがします。阿部首相は「復興は順調に進んでいる。今年は復興観光元年にしたい」などと
能天気な事を言っていますが、まだまだ苦しんでいる方々が沢山いらっしゃることを忘れてはなりません。

岩手、宮城、福島、茨城、千葉旭市・・・の今から目をそらさないで下さい。千葉の浦安や東京でさえも葛西などの液状化被害はすさまじいものでした。

現在の私には被災地の今を自分の目で確かめることは出来ません。テレビやラジオからの情報に頼ることしか
出来ません。ジャーナリストの皆さんの正しい目を期待しています。

そして被災地の若い人達の街への復興の取り組みは頼もしさも感じます。

あの日、突然、命を奪われた方々、家を奪われた方々、大切な家族を失われた方々の悲しみは永遠に消えない
と思います。今、生きている我々がその方達の無念さを引き継ぎ、絶対に震災を風化させてはいけないと思って
います。頑張れは禁句です。日本国民全員が被災者に寄り添い、一緒に歩んで行かなければならないと思います。特に福島の原発被害にあわれた方々への支援はこれまで以上に行われなくてはなりません。
故郷福島に帰ることが出来ない日本各地に避難している方々を決して忘れてはなりません。

写真は私の祖父の故郷、岩手県の三陸海岸の山田町を載せさせて頂きました。
風光明美だった山田町は津波によって壊滅状況になりましたが、少しずつ復興して行っているようです。
山田町を訪れたいと思いながら、まだ行っていません。
なぜ今日もこんなに涙がこぼれてくるのか、それは私の中に岩手のDNAが流れているからだと思います。
ずっと昔に音信不通になってしまった親戚の人達が生存されているのか、確かめるすべも今はありません。
いつの日か山田町を訪れ、海に向かって合掌したいというのが今一番の私の望みです。

改めて、東に本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りさせて頂きます。
そして被災地の復興がどんどん進み、皆さんが元気になられることを切にお祈りします。


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